12月 29

ハンナ・アーレント

「ハンナ・アーレント」を観ました。

評価:★★★★

東京公開はメイン劇場が神保町にある岩波ホールで、3回位、休日・平日問わずに行ったのですが、いつも満席で入れず、2番館である新宿で公開になってからようやく観ることができました(それでも僕が見た回は朝一なのに満席でしたが)。岩波ホールは昔から文化色が強い作品や、教育系のドキュメンタリーなどの公開が多く、人が多いといっても満席札止めになることはなかったのですが、これほどヒットする原因は何だろうとずっと思っていました。観てみると確かに力強い。この作品の持つ力は時代を超えて、私たちの心に響くものなのかなと思います。

ナチス・ドイツのユダヤ人迫害は歴史を詳しく知らなくても、知っている人が多い人類史の悲劇ともいえる。そんなナチスの迫害にあいながらも生き抜いたドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、1960年台初頭に多くのユダヤ人を強制収容所に送った戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会うため、イスラエルのエルサレムにいた。アイヒマンの証言を詳しく調査していく中で、ハンナはアイヒマン自身が悪なのではなく、盲目的な仕事という中で潜む社会悪というのを定義していくのだが。。

戦争は人を殺すという行為が正当化される異常な状態になる。戦後には無論、殺された側に立つと、殺した側に罪としての精算を求める(まぁ、これも戦勝国側の論理なんだけど)のは当然のこと。しかし、ハンナは哲学者として、そうした戦争犯罪行為に貶めたのは、アイヒマン自身ではなく、”ユダヤ人を強制収容所に効率的に送る”という業務を行わせた社会自体に悪があるという「社会悪」のを定義づけたのだ。こうした論理は言われれば分かるけど、殺された側にとっては介せないことは明白。ユダヤ人からではなく、世界中から糾弾されたハンナだったが、彼女はその非難に対しても生涯自説を曲げることはなかった。

社会悪や組織悪というのは、昨今では企業の中にも潜み、顕在化してくると社会を揺らがす大きな事件になる。エンロンの事件やリーマン・ブラザーズの問題、福島原発の東電の対応などを見ても、そこに住む人のことなど考えない、まさに自分たちさえ利益を上げればよい、都合がよければよいという論理はまかり通ってしまう危険があるのだ。グローバル化で世界に密につながれば繋がるほど、ミクロな視点というのは益々お座なりになる危険は広がってしまう。ハンナの指摘はそんな未来をも見据えた先進的なものだったのだ。

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