「嗤う分身」を観ました。
評価:★★☆
分身=<ドッペルゲンガーというと、いつも否定的に語られることが多い。肯定的に捉えれば、自分の身代わりになってくれる、パーマンのコピーロボットみたいな存在なのだろうけど、ちょっと考えれば、自分という存在が第三者としていること自体が気持ち悪い以上のものはないだろう。よほどのナルシストでない限り、自分から見た自分というのは嫌う存在でしかない。これは自分が自分に対して思っている自己肯定という部分ではなく、あくまで否定的に自分を捉えないと、自分という存在が成長できないことにもつながっているのではないかと思います。そんな嫌う自分が目の前に現れたとき、きっとあなたは自分自身が自殺するか、ドッペルゲンガーを殺すかしないと、この世ではうまく生きることができないことでしょう(この辺りは、黒沢清監督の「ドッペルゲンガー」にも描かれていますが)。
本作も、主人公サイモンの前に、自分と瓜二つのドッペルゲンガーが現れます。でも、この存在は上記したものと違い、自分と見かけは一緒であっても、性格・能力は真逆なキャラクターが登場してきます。秘めた能力はあるのに、何に関してもとことんツキがなく、世の中を斜めに見ているサイモン。対して、彼の分身は能力は高くないけど、常に人の一歩先をうまく渡り歩くことで、会社でも一目置かれるプレイボーイ。この対称的な二人のキャラクターは最初は反目しあうものの、徐々に互いの協力関係をつくりながら、物事をうまく進めていこうとする。しかし、所詮は同じ自分の分身に過ぎない。本物は分身を憎み、逆の意味で分身に憑りつかれていくようになるのです。
もとは文豪ドフトエフスキーの小説「分身(二重人格)」をもとにしているだけあって、哲学的な思考力というのがかなり求められているように感じます。映像も極力具体的な描写を避け、登場する様々な機械にしても、用具にしても、とことん抽象的。陰鬱で、暗めな絵作りになっていることも、物語のみにフォーカスがあたるような工夫の1つかと思います。イギリス映画なのに、日本のグループサウンズを音楽として入れるなど、奇抜な演出も見せますが、こういう工夫がかえって、映画自体をとっつきにくいものにしている印象もなくはないです。面白いと思ってやっていることが、逆に万人受けせずに、周りを白けさせるという状況によく似ているのと同じことが、作品通してあるのが残念なところです(ハマれば、面白いんでしょうけどね)。
自分の自分に対する欲望は、「何をしたい」とか、「どういう人間になりたい」とか、普段でも私たちがいろいろ思うところではありますが、結局すべてを完璧にすることはできないし、完璧であることで人間らしさが失われるのもどうかと思います。行動は別にしても、思ったことを素直に表現できる。そうした人なり、社会なりであることが、実はささやかな幸せなのかもしれません。それにしても、サイモンのツキのなさというのは見習いたくはないですけどね(笑
次回レビュー予定は、「THE NEXT GENERATION パトレイバー第6章」です。