8月 19

 現代社会はよくコミュニティ中心社会に移行しているといわれる。TwitterやFacebookの登場に端を発し、特にインターネットのような安価で各個人で発信できるメディアインフラが整っている時代では、細かく見ると追えないくらいにソーシャルサービスが各所で立ちあがっているのだ。そんなコミュニティが重要視されている時代で僕が不安に感じているのは、そこに参加する各個人がどのような意思や考え方をもって参加するのか、よほどしっかりした個人でないとダメなのではないかということだ。そんな人格不安に陥る人は結構いるのではないかと思うのだ。

 でも、ここでいう個人という考え方にフォーカスすると、よりよい個人とはキャラクターがはっきりとしていて、どんな人にあたっても首尾一貫している人のことだと思う。人によって性格が変わる人というのは、古い考えからみれば軽薄な人と捉えられることだろう。しかし、著者が指摘するのは、つながりが重要視されている時代において、その関係をつくっていくことに全てのベースがあるのではないかという問いかけである。それが「分人」という、人によって複数の人格をつくっていくということだろう。

私たちは、極自然に、相手の個性との間に調和を見出そうとし、コミュニケーション可能な人格をその都度生じさせ、その人格を現に生きている。それは厳然たる事実だ。なぜなら、コミュニケーションが成立すると、単純にうれしいからである。

 コミュニケーションを成功させる、人と心を通わせることは嬉しい。無論、人の意思というのは貫かれるべきものだろうだが、今後は組織・社会の中で如何に立ちふるまえるかというところに人の評価ポイントが出てくるように思う。だからこそ、人によって人格が変わってもいいのだという哲学的な許しは、現代社会には必要なことだと思うのだ。

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