3月 09

「「つながり」の進化生物学」を読みました。

まず、いいます。これはホント、オススメな本です。生物としての、コミュニケーションはどう進化してきたかというところを、”つながり”という単純な発想で説明してくれます。

僕は、人がなぜコミュニケーションというのを必要としているのかということを、IT業界に身をおきながら、ずっと自問してきたように思います。IT社会になっている今、そのコミュニケーションが生きる力として、なぜか必須になってきて、社会として、コミュニケーション不全な人は、「コミュ障」という名のもとに、どこか社会的に不能な人という目でみられること(自虐的に、自ら称している人もいるけど)が多いご時世になっているんじゃないでしょうか。じゃあ、TwitterやFacebookで発信している人は健全なのか? LINEやSkypeで会話できない人、そもそもパソコンや携帯電話さえ使いこなせない人は不幸なのか? そもそもコミュニケーションってなんだ、、という問いに、この本は見事1つの解を出してくれていると思います。

僕がこういうことを考えているのは、個人的な欲望を言ってしまえば、朝起きてから、夜寝るまで、一言も発せずに、コミュニケーションせずに一日を充足的にすごせたら、これほど幸せなことがないと思っているからなんです。僕は正直、そんな人間なんです。でも、仕事でも、プライベートでも、コミュニケーションしなければ生きることはできない。そんなコミュニケーションが、いつから必要になったか。これを生物学的な視点から見つめたのが、本著なのです。高校生向けの授業の講義録といった形で進んでいるので、話もとっても分かりやすいです。

どうして私たちは、「明るく社交的で勤勉が良い」なんて思うようになったのでしょう。そのようなルールは、法律でもなんでもないのに、ものすごい重さで若い人たちを縛っているのではないか。そんなルールはどこにもないのに、みんながそれが良いと思っている。それは我々の本性に根ざしたことなのか、それとも、現代社会のあり方が単に私たちを規制しているだけなのか。私は、コミュニケーションの進化の研究は、私たちがそもそもどんな動物なのかを知り、結局は何が幸せなのかを教えてくれるかもしれないと考えています。(P.9)

コミュニケーションによる幸せってなんなのか? それを突き詰めると、今のネット社会の有り様も見えてくるように思います。

人間には想像力があるからって言ったけれど、言葉があるからじゃないかな。動物は想像力がないのだろうか。想像力の源って、やっぱり言葉だよね。(P.99)

言葉があるから、人は考えるという行動をとれるというのは目からウロコでした。

人間の言葉は、主観的じゃないもの伝えられる。動物は、「逃げろ」みたいなことしか言わないけれど、人間は「あの人が悲しんでいる」とか、自分を中心に置かないことが言える。(P.102)

人が言葉をもつことでできること、それはその言葉を使って、全くの他人に自分の考えを伝え、情動を起こすことができること。それは社会という集団生活を作れる、人の基盤みたいなものかもしれません。

感情は、生物学的な部分と、社会的な部分との相互作用で生じるものです。情動が感情として知覚されるには、本人がとらえている「文脈」がかかわります。そして文脈が情動の切り分け方を決める。抽象的な説明になるけれど、そんな感じのことが、僕たちの心の中で起こっているんじゃないかな。(P.182)

この辺りが少し理解が難しいのですが、同じ事柄(たとえば、桜が咲いている)でも、その人の文脈によっては想起される感情が変わってくる(卒業式を思い出して悲しいとか、お花見が楽しくて嬉しいとか)。その文脈の認識も機械的には難しくて、単純に、その人の記憶や物事を経験してきた過程から導き出されるものではないと思います。

僕たちは、言葉が嘘をつくとわかりながら、コミュニケーション手段として、言葉を使います。相手の顔を見れば、口で言っていることは本心じゃないとわかる。男女の付き合いでも、言葉では好きだと言っているけれど、ちょっと遠くを見ていて心ここにあらずとか、わかるでしょう。言葉がある程度、柔軟に動けるというのは、感情があらわれる表情の一部に、ぜったい嘘をつけないところがあって、それが保証になっているからではないかと僕は考えています。

確かに言っていることが100%真実ってことは、多分機械じゃないとできない。逆に、情報量としては20%くらいしかないことでも、そのひと言だけで、いろんなことを想起する一文ってあると思います。小説や歌など、全てを表現しないことで、逆に想像力を刺激して、いろんな風景を見せる術もあるくらいです。全て分かっていなくても、その事柄を理解できるのが、人が機械と比べてできる素晴らしい能力だと思います。

言葉がテキストとして一人歩きすると、「編集可能な」部分しか残らなくなります。もちろん、言葉は、人間から離れることで、人間に蓄積可能な文化をもたらしました。(中略)そして今、私たちがやっていることは、コミュニケーションの一部分の、編集可能な部分、つまり本人の存在から遊離してしまう部分しか残らないような媒体で、つながるというコミュニケーションを成立させようとしているわけです。

今のネット文化が、まさにこれですね。通信の大容量化にともない、無限ともいえるくらいの情報流通が起きている今、人間もたくさんのテキスト情報を当たり前のように操ることができるようになった。でも、それは逆に、その人が発信する全ての文脈を捉えることなく、単純な一断面しか見ないようになっている危険性もはらむのではないかと思います。TwitterやFacebookをはじめとして、多様につながれることは、確かに今までにないコミュニケーションの形を生み出した。そのメリットは享受しつつも、たった1つのつぶやきや投稿だけで、その事柄を理解したようになってはならない。情報がたくさんあるからこそ、そこで盲目的にならない情報のかたちを模索することが、IT業界に関わる人間としての責務ではないかと感じた次第です。

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