1月 31
舞台

舞台

久しぶりに小説のレビューです。西加奈子の「舞台」を読みました。

29歳の葉太はある目的のためにニューヨークを訪れる。初めての一人旅、初めての海外に、ガイドブックを暗記して臨んだ葉太だったが、滞在初日で盗難に遭い、無一文になってしまう。虚栄心と羞恥心に縛られた葉太は、助けを求めることすらできないまま、マンハッタンを彷徨う羽目に……。決死の街歩きを経て、葉太が目にした衝撃的な光景とは――?(Amazon内容紹介より)

人は誰しも本当の自分と、演じている自分というのがいると思います。無論、仕事や学校、家庭などのいろんな場面でも、外から見ると同じ自分でありつづける人はいると思いますが、人はちょっとしたことでいろんなことを思ったり、感じたりし、行動をつくろったりするので、その中身は外見以上に複雑。特に、昨今は「空気を読め」などと言われ、本当はこうしたい、こう考えているんだけどという自分を外に出すことがはばかられるような現状がある。そう、人は大なり小なり、外に対して、どこかで演じている自分というのがいるのだ。

この小説の主人公・葉太は著名な小説家の父のもと、何不自由なく育ってきた。しかし、家庭生活の中でも、友達付き合いの中でも、外見とはどこか違う、”つくろう自分”を演じてきたのだった。それには家庭環境の不和や、著名な父親をもつ息子の苦しみというのもあるだろう。そんな”つくろう自分”にどこか恥じながらも、本当の自分というのを徹底的に抑え込む。惨めな自分というのをさらけ出すのをことさら怖がり、それによって自分が周りから押しつぶされるのではないかと必死に考えているのだ。

そんな葉太がとあることからニューヨークへ一人旅に出かける。初日でいきなり盗難に遭い、無一文になってしまうのだが、どこか”つくろう自分”が、見ず知らずの人しかいないニューヨークでも、本当にしたいことを押さえこんでしまうのだった。物語としては、”つくろう自分”が徹底的に邪魔をするので、他人とのコミュニケーションは最小限に描かれ、様々な光景を見ながら、葉太が抱える苦しみが回想劇として描かれていく。ラストでは、この世のものとは思えない(→ここがヒントだけど)出会いによって、葉太の価値観が大きく崩れ去るのだ。

僕自身も小さい頃は周りと同じになろうと思って、思ってもないことをしたり、無理に周りに合わせたりしていたところが多かったように思います。でも、自分の身体としても障害を抱えていることもあり、だんだん合わせることが苦しくなって、思い切って同じじゃない面白い生き方ってないのだろうかと思って、思春期以降は自分らしい生き方をどこか模索していたように思います。今の自分が必ずしもいつの場面でも同じじゃないけど、同じじゃないこと(とどのつまり演じていること)すら楽しめるようになると、人生は面白いものになるのではないかと思います。

ラスト近くにある次の一節が素敵。これが、この小説が描く人生ってものなんじゃないかと思いました。

誰かが何かを演じるとき、そこには自己を満足させること、防衛すること以外に、もうそれはほとんど、「思いやり」としかいえないような、他者への配慮があるのではないだろうか。こんなクソみたいな世界に、ゴミみたいな自分に疲弊し、もう死にたい、そう思っている人間も、誰かの、何かのために思いやり、必死に演じ、どこかで死なずに、生き続けているのでは、ないだろうか。(P.178)

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