2月 20

「男性論 ECCE HOMO」を読みました。

映画にもなったコミック「テルマエ・ロマエ」の原作者であるヤマザキマリ氏の、男を見つめる目線から見た人生論を書いた著書。「テルマエ・ロマエ」は映画でも、原作のコミックでも、観たり読んだりした方はご存じだと思うけど、この作品はかなり奇妙だと思う。古代ローマ人であるルシウスが、テルマエ<風呂>を通じて、現代の日本にタイムスリップ。いろいろ現代の日本風呂文化を知りながら、それを古代ローマに伝えていくという、ざっくりというと、そんなお話なのだ。なぜ、テルマエを中心に物語を進めるのか? なぜに古代ローマにこだわるのか? そんな著者の目線を「テルマエ・ロマエ」を中心に追いながら、私たちに明日を生きていくための人生論を展開してくれている。

現在の日本には絶対的に足りないものがあるとも思うのです。それは、ここに暮らす人々が「生きる喜び」の実感を得るための、機会や制度や気運といったものです。(P.15)

古代ローマに常に視点があるのは、著者自身が長年ヨーロッパ、特にイタリアに住んでいて分かる自由さがあり、今の日本との違いを如実に感じていることがあるのでしょう。

つまり、つねに古代ローマには未完であることをよしとする性質があるわけです。「ここまでできたからもういい」とはならない。時代が刻々と移り変わるから、ぼんやりとしていたら生きていられない。今日と明日はもう違う世界。生き延びるにはフレキシブルに変化できなければならないから、完璧であることよりも、未完であり、伸びしろを持ち続けることを重視する。(P.57)

いずれ紹介する他の本にもあるのですが、今の欧米の白黒はっきりつける社会に比べて、あわいの世界に日本人は生きていると思うのです。物事に結論をつけずに、いろいろな多様な考え方を取り入れようとする文化は、未開な部分でもどんどん世界を拡げていける可能性を秘めている。元来、不安定な自然界と対話しながら、適応して生きる仕組みを日本文化はつくってきた。同じことが、古代ローマの世界観にもあるのかなと読んでいて感じました。

ひとりの人間では、万物を認識することはできない。それは悲しいことではあるけれど、だからこそ、地球のほかの場所、あるいは歴史的にちがう時代のひとはこんなふうに物事を認識しているのかと知るのが楽しいのだと思います。知るって、やっぱりおもしろい。認識を共有することのおもしろさに、ルシウスもわたしもとりつかれている人間なのでしょう。(P.63)

やや偏った見方かもしれないですが、自分が自分という身体に意識を持って生まれてきたのは偶然の産物なんだと思うんです。逆に見れば、自己意識というのは目の前の人に宿っていた可能性もあるし、時代を越えて、歴史上の有名な人物に宿っていたものかもしれない。そう見ると、世の中の人がやっていることは、すべて自分がやっていることとも思えていいのかもしれません。だからこそ、いろんな考えを知りたい、、知識欲というのは、僕の場合、そういうところから生まれてきます。

日本にいるだけでは考えもしない問いに身を置くこと。グローバルな視野、などと大げさに言わなくとも、他人の感覚を自分のものにできる人は単純にかっこいい。他者への寛容性の第一歩は、この他人の感覚に寄り添えるかどうかだと思うのです。(P.216)

そうそう、自分の感覚にフワッと入ってこれる人って魅力的ですよね。それにはまず謙虚に他人を見つめること、知りたいと思うことから始まるのだと思います。

つまるところ、自分を助けてくれるものがあるとしたら、それは想像力だと思います。想像力という比喩は月並みに聞こえるかもしれないですが、言い換えるならば、自分自身で時間をかけて「辞書」を作り上げていくということ。いろんな書物を読んだり、絵や映画を見たり、音楽を聴いたり、世界中の街を歩いてみたりする。そうやって自分の想像力を駆使することで、今は生きていない人たちとも、親密に付き合うことができるわけです。(中略)なにか大きな局面に直面したときに、今の自分を助けてくれるヒントに満ちています。(P.222)

僕が映画や読書が好きなのは、自分の普段では感じ取れない感覚を、映像だったり、文字だったりの媒体を通じて伝えてくれるからだと思います。大げさかもしれないけど、映画や本があるから、僕は人間らしい生活が送れる。映画がなかったら、生物的には生きられるのかもしれないけど、中身が詰まっていない空虚な人間でしかなかったことでしょう。こうした”人生の魅力”というものを、いろんなカッコいい人たちの生き方から学べる素敵な本です。

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