4月 22

世界の果ての通学路

「世界の果ての通学路」を観ました。

評価:★★★★★

通学路と聞いて思い出すのが、(大半の人がそうだと思うけど)徒歩で通っていた小学校の頃。田舎の学校だったけど、自転車の通学は許されていなくて、校区の端に住んでいた僕は30分以上かけて通っていた。無論、今思えば2km少々くらいしか距離的にはなかったと思うけど、身体が小さい小学生にとっては、果てしなく遠くに小学校があったような感覚だった。それでも、通学路にあった神社でみんなで鬼ごっこをしたり、雪が降ったときは、工事の廃材置き場(今考えると、子どもには危ない場所だったけど)で雪だるまや雪合戦をした思い出が蘇る。学校での思い出よりも、その道すがらでいろいろ友達とした思い出のほうが強いといっても過言ではないかもしれない。

いくらインターネットが発達し、MOOCsと呼ばれるような教育のオンラインサービスが発達してきたとしても、学校で学ぶというシステムは現在も変わってはいない。日本でも就学人数が少ない地域では(これが都会でもあるというから驚きだが)相当な距離を通っている生徒がいる。でも、世界まで見渡すと、驚くまでの距離を通う子どもたちがいるのだ。この映画は、そうした子どもたちが通う光景を捉えながら、学校に通い、学ぶということとは何なのかを見つめるドキュメンタリー映画になっている。

ケニアのジャクソンは片道15kmの道のりを、モロッコのザヒラは山岳地帯のおよそ片道22kmを通っている。距離にも驚きだが、ジャクソンが通う道すがらは猛獣たちがいるサバンナを横切らないといけない。それこそ緊張感を持ちながら、妹を連れ、小走りに学校へ通う。かと思えば、足の不自由なインドのサミュエルはお手製の車椅子を使い、弟たちに連れられながら4kmの道のりを通う。日本ならまだしも、舗装路が少ないインドでの車椅子移動は至難の業。途中で車椅子が壊れるハプニングに見舞われながらも、何とか学校まで辿りつく。涙腺が緩むのは、そうした手がかかる兄の存在を弟たちが決して疎むこともなく、むしろ勉強ができるサミュエルのことを尊敬していることだろう。そうした兄弟の見えない絆は、ケニアのジャクソン、もう1つ描かれるアルゼンチンのカルロスのエピソードでも感じることができる。

思えば、通学路というのは、学校では学べない友達や兄弟との絆や、地域の人との交流、通学路上の自然を含め、様々な事物との関わりを教えてくれるものなんだと改めて感じます。ただ距離がある、ただ危険ということだけでなく、その道すがらで何を学び、何を感じ、そうして自分がどうなっていきたいかを考えさせてくれる場所や時間だったように、今振り返ると思います。日本やアメリカなどの国では、いろんな事件が通学路上で起こり、子どもたちを守るために、親が送り迎えしたりする光景もよく見かけるようになっています。でも、学びの場でもある通学路を、地域住民も含めて守っていかないといけないのではないかと見ていて思いました。

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