10月 24

柘榴坂の仇討

「柘榴坂の仇討」を観ました。

評価:★★★★

安政の大獄などで、吉田松陰などを処刑した井伊直助。幕府の開国論に反旗を翻した攘夷運動の粛清への弾圧は、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されたことで討幕運動への火付けになり、明治維新に向け、急速に時代が変化していくことになる。本作は、その桜田門外の変で井伊直助の警護責任者として帯同していた一人の武士、志村金吾が藩命として仰せつかった、井伊大老の仇を討っていく話となります。

桜田門外の変についても、多くの映画化作品がありますが、近作では井伊大老を討った水戸藩浪士の目線で描いた「桜田門外ノ変」が非常によくできた作品でした。時代劇では悪者役をでっち上げることが一昔前では鉄則みたいなところがありますが、絶対的な悪は別にして、物事の善悪は社会においては一方の見方でしかないので、近年の時代劇では敵味方を問わず、人間としての在り方を描くことが多くなっているように思います。特に、明治維新前後は開国派・攘夷派の激しい対立はあるものの、双方とも社会をいい方向に向けさせたいと思う気持ちは同じだったはず。結局、攘夷論ではなく、討幕論になり、幕府側が本来行おうとしていた開国にむけて、社会が否応なしに進んでしまう。こうした一見矛盾した考えが成立してしまうのが社会というものだし、急速に社会の在り方が変わっていく中で、様々な人間模様(人間ドラマ)が起こるのも真実。坂本竜馬など明治維新前後の人物たちが未だに人気があるのは、こうした混迷した社会でも己を持って生きてきたというヒーロー的な側面が強いのかなと思います。

話がだいぶそれてしまいましたが、本作は、そんな時代の移り変わりの中でも、藩命に従い、明治の世になっても仇討を決行しようという一人の武士の話になっています。歴史上、中世は江戸時代まで、明治以降は近現代という枠組みになっていることに従えば、主人公・志村は時代は近代になっても、中世のような主従関係を貫こうとする。でも実は、ここに主はいないのですよね。藩主であった井伊大老は当然、その井伊家も、彦根藩も、幕府さえもなくなっている。でも、必死に仇討を決行しようとする心とは何なのか?、、映画のテーマは、この部分にあるように思います。

中盤に描かれる、武士であることを象徴するシークエンスがあるのですが、ここが少し感動的。結局、武士であることとは、自分の自分たる生き方を厳しいまでに追い求めることではないかと思うのです。仇討は藩命ではあるものの、これを義務と思ったら、明治の世になったら、いや、明治維新の混迷の中で、きっと志村は仇討を諦めてしまって逃亡してしまっていたでしょう。でも、義務ではなく、主君を想う信頼の心があるからこそ、形式的になるかもしれないが、仇討という一つの区切りを終えないと生きることさえままならない。何を使命に生きていくのか、、きっとそんな武士の生き方は、現代日本人でも参考になる部分が多分にあると思います。

次回レビュー予定は、「バルフィ!人生に唄えば」です。

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