2月 16

幸せのありか

「幸せのありか」を観ました。

評価:★★★★★

ポーランドを舞台にし、知的障害者マテウシュの半生を描いた作品。映画中には詳しい説明がなかったのだけど、知的障害者というよりは脳性麻痺患者と最初から思って見たほうがスッキリするかな(この微妙な設定も物語上重要ではあるのですが)と思います。障害者というのは、身体障害や知的障害、精神障害に限らず、普通の人に比べて、障害と呼ばれる部分が著しく機能が劣っていたり、ひどい場合は欠落していたりします。しかし、人間の身体というのは不思議なもので、障害があっても、全体としての人の機能は見事に調整を図ろうとする。むろん、それは自我という中で捉えられるものに過ぎず、周りの人から見れば、変な人・可哀そうな人と見えてしまうのがしょうがないところ。身体障害を持っている僕の感覚(下肢麻痺、内臓機能障害)で見ても、障害ではなく個性だ、、という前向きな捉え方はできないけど、その障害自体もうまく機能調整されて、僕という一部になっているというところは感じています。それは障害があってもなくても、十人十色で見ている世界・感じる世界が違うような感覚(障害がある分、見え方が少し違っている)ことに過ぎないのだと思っています。

本作が面白いのは、マテウシュが見えている障害者であることの世界観をユニークに描いていること。僕は見ていて、ジュネ監督の「アメリ」に雰囲気がすごく似ているなと思いました。「アメリ」はちょっと内気で、人とは違った感覚を持っている普通の女の子の日常を、彼女が観ている(想像している)ファンタジックな世界を通して映像化した作品でした。本作は「アメリ」ほどファンタジックではないですが、全編通じてあるマテウシュのモノローグにより、マテウシュの見ている世界観というものが、普通の私たちの日常感覚と何も変わらないことに気づかされます。でも、僕らは障害者であるということで、特別視してしまう。それはある意味仕方ないことだし、ある意味当然でもあるのだけど、コミュニケーションができないと思われることの辛さが前半部に描かれています。その中でも、父親をはじめ、彼に人としての楽しさを何気なく与える人々によって、マテウシュの日々というのが彩られていくのです。

観ていて感じるのは、健常者でも、障害者でも、普通に幸せなり、楽しさなり、安心なり(これらをひっくるめて愛とくくれるかもしれないですが)を求める想いというのは変わらないのだということです。特に、知的障害や精神障害を抱える人たちに、管理や監視という側面を強める社会は、どうしても冷たくを成らざるを得ない。でも、彼ら彼女らは障害というフィルターを通してはいるけど、その中身は私たちとなんら変わることのない、普通に世界を見たり感じたりすることができるということを、この映画は優しく問いかけているように思います。ノーマリゼーションやバリアフリーという言葉が世間ではよく叫ばれますが、この映画自体を観て、感じることも、究極のノーマリゼーションではないのかなと思いました。

次回レビュー予定は、「チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密」です。

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