2月 23

悼む人

「悼む人」を観ました。

評価:★★★

第140回直木賞を受賞した同名作品の映画化作品。原作者の天童荒太は「永遠の仔」で有名ですが、映画化作品として考えると、本作と同じ堤幸彦監督・柳楽優弥主演の「包帯クラブ」(2007年公開)を僕は思い出します。人の心の傷を、そのトラウマを抱える場所に目に見える形で包帯を巻くオブジェを作っていく、少年少女たちの姿を描いていった作品でした。この作品のように天童荒太原作作品では直感的に人の心に響く”正しい言動”をしている人たちが、その正しさうえに”社会のタブー”に触れていくという二律背反な作品が多いように思います。「包帯クラブ」も、少年少女たちの行動は人の心を癒していくと同時に、関係者にとっては余分なお世話と感じられるようになり、その何気ない疎ましさが彼らに対する反発心をも生み出していくという複雑な関係を描く意欲作でした。本作も、他人の死を悼むという、ある意味、おせっかいな行動をしている主人公・静人の行動から、心を動かされていく周りの人々の様を描いた作品になっています。

僕は観ていて、最近読んだ養老孟司先生の「自分の壁」という本の内容を思い出しました。詳しい引用はしませんが、そこには人にかかわる死の形として、3つの死が表現されていました。1つ目は「自分自身の死」、2つ目は「肉親・パートナーや親しい友人の死」、3つ目は「全くの他人の死」。この3つの死の形に対し、普通の人が心を痛めるのは2つ目の「肉親・パートナーや親しい友人の死」だそうです。1つ目の「自分自身の死」は自分は死んでしまっているので、悲しむも何もない。3つ目の「全くの他人の死」は悼むべきなのだろうけど、累計でみると世界では1秒に約2人が亡くなっている現在、その世界中の人に思いを馳せていては、身がまず持たない。自分という人が、死に対峙する瞬間というのは、この2つ目の死の形となってくるのです。人は死に向き合うと絶望しますが、その死に対しても(中には3つ目の死も含まれるかもしれませんが)、徐々に忘れていくことで、人は生きていくことができるのです。死んだ人を思えなくなるのではない。死を忘れることで、その人たちの生をも着実に引き継ぐことになると僕は思うのです。でも、この作品の主人公・静人は全国を旅しながら、出会った全ての死に対して、その死のすべてを自分自身で受け入れようとする。静人はなぜ、こういう行動をとり続けるのか。そして、その静人の行動によって、徐々に周りの人たちの死に対する見方も変化していくのです。

それこそ中世の時代では、行基、空海に代表されるような聖(ひじり)たちが全国を行脚し、名もない無縁仏たちや貧者の魂を癒すために、”悼む人たち”がいました。今でも仏教や他の宗教でも、他人ながら人の死を悼む人はいるのだろうけど、とかく社会が成熟されてきた現代では、死自体も個別(個人)化され、他人の死に対して不寛容になってきたと思います。それは時代の趨勢でしかたがないのかもしれない。でも、戦争や事故、事件などで不幸にも命を落とす人、そしてその周りにいた人にとって、その死を誰か第三者にも悼んでもらいたいと思うのも然りじゃないかと思えてきます。それは残された人たちが、2つ目の死の形を乗り越えられなかったときに、明日を生きることができなくなるから。悼む人という存在は、そんな悲しい死が多い現代だからこそ、余計に必要な存在に思えるのです。

と、かなり脱線しましたが、こういういろんな想いを抱かせてくれる作品はいい作品なのですが、本作に関しては、原作のもつ凄まじいパワーに、映画版は少し表層しか追いきれていない感じがします。堤監督は万能監督なので、どんな作品でも一定水準の面白さを出してくれるのですが、そこから一歩踏み込んだ名作になるような何かには少々欠けるように思うのです。本作でも一番の肝となる、静人と彼の家族の関係描写がイマイチ分かりづらかった。静人と行動を共にすることになる奈義についても、彼についていくところは理解できても、彼との別れの場面が少々曖昧過ぎるような気がしてなりません。原作がすごくいろんな解釈ができる作品なので、何か1つテーマを絞った映画版であってもよかったかもしれません。

次回レビュー予定は、「フォックス・キャッチャー」です。

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