5月 25

妻への家路

「妻への家路」を観ました。

評価:★★★★★

「初恋のきた道」のチャン・イーモウ監督が、「王妃の紋章」以来となるコン・リー主演で挑んだ作品。ときは、1960年代に吹き荒れた文化大革命の時代。強制収容所に捉えられ、20年もの長き時を経て、帰ってきた夫とその夫の帰りをひたすら待ち続けた妻のお話。こう書くと、忠犬ハチ公みたいな話になるのかなと思いましたが、長い時を経て、妻は記憶に障害をきたし、長年連れ添った夫の顔も認識できずにいた。しかし、一度愛した夫の帰りをいつまでも待ち続ける、その傍に夫は既に帰っているのに。。

人は記憶の中で生き、記憶の中で生かされている生物ではないかと思います。読み書きし、人を愛し、モノを欲するという、この気持ち自体は普遍的なものなのでしょうが、それは客観的に見た場合であって、常に自分の中の意識というのは自分のものでしかない。「マトリックス」ではないですが、この世の認識は全てバーチャルなもので置き換わるのなら、今、目の前に対峙している人やモノというのも、私という個人が勝手に見せている幻影かもしれないのです。しかし、人はこの幻影に惑わされながらも、幻影を信じ、生きている。実体はもしかしたらないものなのかもしれないけど、それ自体を普遍的なモノとして捉えて、生きていけることこそ、人という生き物が最も優れている面なのかもしれません。

といいつつも、この映画に出てくる夫ルーと妻フォンの物語はあまりにも切なすぎます。不条理ともいえる社会革命と、強制収容の後、苦労して帰ってきた夫の前には、以前と見た目は変わりない妻がいた。しかし、その妻の記憶の中にとどまっているのは、二十数年前に囚われた身となった自分の過去の姿だけ。脳に障害を持ち、短い最近の記憶をとどめることができない妻。いくら自分が夫だと言っても、妻の記憶の中に、夫という存在は別にいるという認識でしかない。あなたなら最愛の存在に頭の中では愛されながらも、目の前の存在としては愛されないとなったらどうだろう? それでも妻を愛することはできるのだろうか。。

チャン・イーモウ作品は2005年の「単騎、千里を走る」以来、久々に観ました。僕の中で、イーモウ監督は「初恋のきた道」の印象が強く、本作もどことなく、時代は移ろいながらも、愛するときがあったという過去の幻影に苦しみながらも毎日を生きていくという、同じ路線の作品に感じました。過去の楽しく、美しい想い出というのは、とかく今を生きるという観点からいうと、苦しみにもなってきたりするのですが、本作を観ていると、そこでどう生きていくかというのはやはり選択しかないし、その生き方に対しては人がとやかく言えるようなものでもないのかなと思います。でも、映画のラストはとにかく苦しくて、胸が張り裂けそうな想いに駆られてきます。愛する人に振り向いてもらえなくとも、愛し続けること、あなたはできますか?

次回レビュー予定は、「アルプス 天空の交響曲」です。

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