21世紀は知識社会になると提言した人は、ドラッガーであったり、ベルであったりと結構多い。PCの登場で、個人でも情報を簡単に生成、蓄積でき、インターネットの台頭で、その情報がクリック1つで全世界まで拡がることを知った。そして、スマートフォンの拡大は、その情報が私たちの生活にまで浸透するファーストステップだったように思う。これだけ情報がアンビバレントに拡がり、いわゆる20代を中心としたY世代では、情報がどこにでも手に入るということが当たり前になってきている。これから必要なのは、その情報をうまく知識にデザイン(もしくはリ・デザイン)できる能力だと思う。それこそ、デザインは意味が無さそうな繋がりから、有を生み出す行為でもある。そこには創造する力”クリエイティビティ”が必須なのだ。
一般にクリエイティビティとは、「無」から「有」を生み出す行為とされる。でも、僕はその概念自体は真であっても、これだけ無数に情報がある社会ではむしろそこから構築していく能力といったほうが適切なのだと常々思う。本著はあくまで、そういうクリエイティビティが必要だという前提に立ち、それを発揮しながら仕事をするクリエイターたちにはどのような環境が必要なのか、という環境論に終始している印象がある。でも、その中でもクリエイティブ・クラスに必要な要素はいろいろ語られる。
仕事でも余暇でも、一分一秒をクリエイティブな刺激や経験に満ちたものにしようとしており、それはしたがって時間に対する概念は完全に変化しつつある。いつ何をすべきかを示していた古い区分は消滅した。実際、私たちは休むべき時に働き、仕事をすべき時に遊んでいることがある。クリエイティビティはあらかじめ決まった時間にスイッチを入れたり切ったりできるものではなく、それ自体、仕事と遊びとが奇妙に交じり合ったものだからである。(P.19)
これはクリエイティブな思考は、仕事をするといういわゆる勤務時間という概念が無意味になってきていることを示している。僕はワークライフバランスで語られるライフワークという概念よりも、よりもっと広い意味でワークをライフにできるような仕事の形、それがライフワークではないかと思うし、企業も積極的なそういう新しい仕事の形を模索していかねばならないのではないかと常に感じている。
でも、これも裏腹で、それだとそのような思考な状態に入ったときは、いつでも仕事をしていることになる。こういうときに今までの勤務時間、それに絡んだ給与の在り方はどうなるのだろうといった、セコい考えも生まれてしまう(笑
それとはまた別の議論として、クリエイティブな思考状態にいるのは常にいろんな考えに対して、自分の思考の窓をオープンにしていなければならないということがある。そうした多様性と人とのネットワーク、もっと広げて、都市の在り方にまで言及しているのが興味深かった。アメリカの都市では例えばデトロイトのような、工業都市の場合は工業製品の需要・共有というサプライヤーの関係のみでつながり、生産性向上という1つの目的に対しては動きが早いが、同質的な”強い絆”の考えが重要視され、都市としては閉鎖的になる。こういった都市はクリエイティブな職につく人は少ない。一方、サンフランシスコのような西海岸の都市は、そもそも宗教的にも、文化的にもオープンな土地であり、多様な民族や様々な考えをもった人々を受け入れる土壌がある。その中で人々が”弱い絆”で結びつき、様々な製品・サービスを多種多様に生み出す。こういった都市にクリエイティブ・クラスは多くなるといった傾向がある。都市デザインと、そこに結びついた産業の振興は、日本の地方都市にも早急に適応できるような考え方だと思う。
ただ、そうしたクリエイティブといった能力の中身の話は全く触れられていない。クリエイティブ・クラスをいかにして増やしていくのか、教育論も含め、そうした人材の育成にスポットを当てた議論を著者には今後期待したい。
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