4月 09

21世紀は知識社会になると提言した人は、ドラッガーであったり、ベルであったりと結構多い。PCの登場で、個人でも情報を簡単に生成、蓄積でき、インターネットの台頭で、その情報がクリック1つで全世界まで拡がることを知った。そして、スマートフォンの拡大は、その情報が私たちの生活にまで浸透するファーストステップだったように思う。これだけ情報がアンビバレントに拡がり、いわゆる20代を中心としたY世代では、情報がどこにでも手に入るということが当たり前になってきている。これから必要なのは、その情報をうまく知識にデザイン(もしくはリ・デザイン)できる能力だと思う。それこそ、デザインは意味が無さそうな繋がりから、有を生み出す行為でもある。そこには創造する力”クリエイティビティ”が必須なのだ。

一般にクリエイティビティとは、「無」から「有」を生み出す行為とされる。でも、僕はその概念自体は真であっても、これだけ無数に情報がある社会ではむしろそこから構築していく能力といったほうが適切なのだと常々思う。本著はあくまで、そういうクリエイティビティが必要だという前提に立ち、それを発揮しながら仕事をするクリエイターたちにはどのような環境が必要なのか、という環境論に終始している印象がある。でも、その中でもクリエイティブ・クラスに必要な要素はいろいろ語られる。

仕事でも余暇でも、一分一秒をクリエイティブな刺激や経験に満ちたものにしようとしており、それはしたがって時間に対する概念は完全に変化しつつある。いつ何をすべきかを示していた古い区分は消滅した。実際、私たちは休むべき時に働き、仕事をすべき時に遊んでいることがある。クリエイティビティはあらかじめ決まった時間にスイッチを入れたり切ったりできるものではなく、それ自体、仕事と遊びとが奇妙に交じり合ったものだからである。(P.19)

これはクリエイティブな思考は、仕事をするといういわゆる勤務時間という概念が無意味になってきていることを示している。僕はワークライフバランスで語られるライフワークという概念よりも、よりもっと広い意味でワークをライフにできるような仕事の形、それがライフワークではないかと思うし、企業も積極的なそういう新しい仕事の形を模索していかねばならないのではないかと常に感じている。

でも、これも裏腹で、それだとそのような思考な状態に入ったときは、いつでも仕事をしていることになる。こういうときに今までの勤務時間、それに絡んだ給与の在り方はどうなるのだろうといった、セコい考えも生まれてしまう(笑

それとはまた別の議論として、クリエイティブな思考状態にいるのは常にいろんな考えに対して、自分の思考の窓をオープンにしていなければならないということがある。そうした多様性と人とのネットワーク、もっと広げて、都市の在り方にまで言及しているのが興味深かった。アメリカの都市では例えばデトロイトのような、工業都市の場合は工業製品の需要・共有というサプライヤーの関係のみでつながり、生産性向上という1つの目的に対しては動きが早いが、同質的な”強い絆”の考えが重要視され、都市としては閉鎖的になる。こういった都市はクリエイティブな職につく人は少ない。一方、サンフランシスコのような西海岸の都市は、そもそも宗教的にも、文化的にもオープンな土地であり、多様な民族や様々な考えをもった人々を受け入れる土壌がある。その中で人々が”弱い絆”で結びつき、様々な製品・サービスを多種多様に生み出す。こういった都市にクリエイティブ・クラスは多くなるといった傾向がある。都市デザインと、そこに結びついた産業の振興は、日本の地方都市にも早急に適応できるような考え方だと思う。

ただ、そうしたクリエイティブといった能力の中身の話は全く触れられていない。クリエイティブ・クラスをいかにして増やしていくのか、教育論も含め、そうした人材の育成にスポットを当てた議論を著者には今後期待したい。

3月 23

皆さんは整理上手だろうか? 僕は全然ダメ。オマケに好きなものをどんどんと貯めこむクセがあるので、部屋はどんどんモノで溢れてくる。都内の自宅は狭いので、できうる限りモノは貯めない(買わない、残さない)工夫をしているが、世の中はどんどんモノが溢れる方向に動いている。整理術とは、そんな現代社会を生き抜くためには必須な能力なのかもしれない。

この佐藤可士和さんが教える超整理術は、こんな僕のようなモノや情報に埋もれてしまう傾向にある人には最適。でも、100均でラックを買って、この本をこう整理して、、、という具体的なノウハウを教えてはくれない。あくまで整理するための心の持ち方、スタンスを教えてくれるのみだ。これって役に立つの?と思われがちだけど、そもそも整理が必要でないと思っている人には、整理をすることによって何ができるのかというWHYから教えてくれたほうが身になるものだ。いろんな事例を上げながら語ってくれる、その先にあるのは”それって、本当に必要なの?”と問う姿勢なのだというところに集約化されてくる。

実は、この本の後半は整理術といいながら、著者がやっている広告デザインの話に移っていく。それには、この”それって、本当に必要なの?”という問いが、ビジネスでも使える基本スタンスだということなのだ。製造業でも、サービス業でも、1つのモノやコトの中でも今はいろんな要素が複雑に絡み合ってくる。でも、何かを実行するには、その1つ1つの中で本当に必要なものを見つけ、それをうまく並び替えていくことなのだ。それには普段から、その本当に必要なものを見つけ出す能力を鍛え、準備しておくことが必要。そのためには整理を習慣づけることが、その能力を高めていくこと。こんな嘘みたいな本当なことが、この本が最も強くメッセージングしているところだと思う。

日常うまく整理ができているかいないかはさておき、いろんなモノやコトが溢れる現代を生きるビジネスマンには、こういう見方もあるのかと知るだけでも一読をオススメする。

3月 16

サーバントは直訳すると、”奉仕者”である。奉仕と聞くと、地域を代表して外掃除しているような人をどうしても思い浮かべてしまう。小学校の頃に、奉仕作業といった行事があって、いつも通っている通学路を定期的に掃除する機会があった名残だろう。

そんな話はさておき、昨今の新しいリーダー像として、サーバント・リーダーという形が、今、非常にもてはやされている。本著は、仕事にトラブルを抱え、修道院に癒しと新しいビジネス像を求めてセミナーを受けに来た、一人の男の学びを通して、この新しいリーダー像を紐解いていく。一緒に擬似セミナーを受けるような形で進んでいき、こちらも話を読みながらもいろいろと考えさせられてしまうのだ。

それでは本著の中にも出てくる、サーバント(奉仕:Servant)という考えがどこからくるのか、、、それは図で書くと直感的に分かりやすいので描いてみた。
スクリーンショット 2013-03-11 19.23.04
それぞれ三角で示されているのが会社組織だとする(ミドルクラスは専務でも、常務でもなんでもよかったが、ここでは部長にしている)。旧来の社長やCEOなど、トップから現場サイドに働く一般社員まで、裾が広い左側のような組織体系だとしよう。最終的に顧客に接しているのは、現場の一人一人の社員。彼らの上にマネジメントクラスがどんと居座り、売上が上がらないから、経費をカットしたいから、現場サイドを無視して、権力を振りかざしたとしよう。それは社員の向こう側にいて、本当は大切なはずのお客様まで悪影響を与えてしまう。そんなことはこの図からも一目瞭然だ。お客様から感謝され、多くの商品やサービスを買ってもらうには、お客様に接するはずの現場社員が活き活きとしていないといけない。そうなら、自然と会社組織は右側になるはずなのだ。これが新しいServant型の組織体系なのだ。

では、こうしたServant型の組織体系では現場が勝手にやって、マネジメントクラスはただ彼らの欲求を満足させればいいのだろうか? いやそうではないと本著は語る。

欲求じゃなくニーズに応える、奴隷じゃなくて奉仕者になるんだ。(P.131)

現場の構成員がこう働きたいというニーズに応えるということ、それが奉仕だと述べている。そのためにリーダーが必要なことは権力ではなく、権威が必要なのだ。

◯権力:たとえ相手がそうしたがらなくても、地位や力によって、自分の意志どおりのことを強制的にやらせる能力。
◎権威:個人の影響力によって、自分の意志通りのことを誰かに進んでやらせる技能。 (P.36)

そして、意志通りに動くということは、リーダーの意図を汲み取り、それを行動に移せること、すなわち

意図−行動=無 、 意図+行動=意志 (P.100)

なのだと。

思えば、働くという行為は、たとえ小さな範囲であっても社会を支え、社会を変えていくということ。だったら、自分自身も気持ちよく働きたいし、一緒に働いてもらう人にも気持ちよく仕事をしてもらいたい。それはすごくシンプルだけど、すごく大事なことなのではないだろうか?

最後に、本著にさっと書いてある素敵な言葉を。

あなたが生まれたとき、あなたは泣き、世界が喜んだ。あなたが死ぬときは、世界が泣き、あなたは喜ぶような生き方をしなさい。 (P.196)

3月 14

昨日に引き続き、人の死に向き合ったノンフィクション作品をご紹介(前回記事:「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」書評

本著「遺体ー震災、津波の果てに」は、まさに2年前の東日本大震災時、海部分のマチを失った釜石市が舞台となっている。遺体安置所となった市内の旧二中を中心に、そこに関わった地元の人々をインタビューをもとに書き起こしたノンフィクション作品になっている。実際に震災時、街全体が壊滅的な打撃を受けた陸前高田市のような場所ではなく、街の半分は津波の被害を受けなかった釜石が舞台になったのは、(著者も語っているが)被害を受けなかった街の人が、身近にある同じ街の人の死に向き合うことに注目しているのだ。それは日常生活が崩壊し、周りの世界が一気に地獄絵のような状態になったことだと想像に難くない。そんな地獄のような世界の中で、人が人としてどう生きるべきなのかを、この作品は教えてくれるような気がする。

「エンジェルフライト」では人の死と、遺族とを繋ぐ想いについて述べたが、この作品は同じ人の死でも見方が少し変わる。本著に登場する人たちは元葬儀社や地域の医師など、人の死に対し、関わりを持っていた人ばかりでなく、否応なしに当事者ではなくても人の死に向かい合わないといけない人たちもいたということだ。それこそ遺体などに触れたことがない人たちも関わらないと、物事が進まないような混乱。そこには多くの死に対して、遺体が本当に魂の抜けた”モノ”になってしまうような狂気もあったろう。単純な悲しみ、苦しみ以上に、人としてその地獄を生き抜くために必要な多くの要素があったことだろう。悲しい、確かに悲しいが、そこから進まなければ日常は戻らないのだ。でも同時に、残された多くの遺族とともに、苦労があっても一人一人の死に対して向かい合う尊厳さも忘れなかったことが、(単純な言葉ではあるが)凄いと思わさせられるのだ。

印象的なのは、ラストの部分で単身であったり、それこそ身内全員が犠牲になり、身元がわからず無縁仏になっている人たちにも触れていることだろう。そのような人も含め、犠牲となった方を弔い続けることが本当の復興なのだと思う。先立った人の想い、意志に触れ続けることが、遺された者たちの使命でもあるのだ。

3月 14

2013年3月11日は、東日本大震災から2年が経過する。様々な番組、行事なども行われているが、人の死に関わる本を2本読了したので、立て続けに紹介したい。

1冊目は「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」

この本を読み始めたのは、ちょうど2013年1月21日、アルジェリア人質拘束事件が起きたときだ。多くの日本人現地スタッフが犠牲となったが、そこで犠牲となられた方が本国に日本国政府専用機で移送されたことを記憶されている方もいるだろう。本著はそうした国際遺体搬送を請け負う、霊柩送還士たちの姿に迫ったノンフィクション作である。

日本国内でも出張や旅行中の事故などで、住んでいる場所から遠くで人が亡くなった場合の遺体搬送は正直大変だ。それが海外ともなると、距離という問題もそうだが、国の文化や風習による遺体の考え方、それに伴う処理の技術にも大きな差がある。それに(嫌らしい話ではあるが)ビジネスという側面であっても、葬儀社ごとのポリシーの差によって、取り扱われ方が大きく異なる。家族や故郷に遺体を還す。言葉で書くと単純だが、その裏側には大変な苦労があることがよく分かるのだ。

僕はこの本を読んで、日本人の亡くなった人に対する想いというのがとても素晴らしいものだと、改めて気づかされた。僕自身は人には魂というものはあると信じていて、魂が身体に宿って、はじめて人というものが成り立つと考えている。魂の抜けた遺体というものは、単純に見れば、”モノ”でしかない。それでも、日本ではほとんどが最終的に火葬にしてしまう遺体に対して、適切な防腐処置をし、死に化粧をし、葬式を上げて送り出す。「ツナグ」の書評でも書いたが、そこには残された人が、それぞれの想いの中で故人と真正面に向き合い、別れを惜しみ、悲しみ、整理する瞬間が必要ということを暗に文化として示している。これは改めて素晴らしいことではないかと思うのだ。人が亡くなった時点で、その人はいなくなるのかもしれないが、その魂は残された人たちの中で永遠に生き続けるものなのだ。

この本に登場する人たちは寝る間も惜しんで、海外で亡くなった日本人、そして日本で亡くなった外国人たちを遺族のもとに還す仕事をしている。それもどんなに傷ついた遺体であっても、できるだけ元の元気な姿に戻す努力もなされている。それはある意味、故人の魂を、遺族のもとに”還す”仕事ともいえるのだ。

preload preload preload