12月 28

母と暮せば

「母と暮せば」を観ました。

評価:★★

井上ひさし原作の戯曲を、「小さいおうち」の山田洋次監督が映画化した作品。もっと正確にいうと、井上ひさしの原作戯曲で生前作られた作品は「父と暮せば」であり、同様の構成で「母と暮せば」を構想していたが、その段階で他界されてしまったこともあり、山田洋次監督がその構想を補う形で映画化した作品が本作ともいえます。「父と暮せば」については2004年に戦争映画監督としても知られる黒木和雄監督、宮沢りえ、原田芳雄主演で映画化されており、ちょうど僕自身も当時大阪の映画館で原田芳雄さんの舞台挨拶付で観た、思い出の作品でもあります。「父と暮せば」は作品的にも戦争から明日への希望を描いた作品でもあり、個人的に好きな作品でもあったので、その地続きとなる本作がどのような形になっているか期待をしての鑑賞でした。

本作は「父と暮せば」を単純に母親版に翻訳した作品かと思いましたが、同じ幽霊と同居という形は変わらないものの、いくつかの設定が違っています。まず物語の舞台が、「父と暮せば」が広島だったのに対し、本作の舞台はもう1つの爆心地である長崎となっていることが違います(この辺りは、井上ひさしの構想としても、広島・長崎・沖縄と舞台を移した作品にしたかったとのことで、原案者の意向通りになっているかと)。そして一番大きな違いが、「父と暮せば」は題名通り、父親が幽霊で、原爆から生き残った娘と同居していく話なのに対し、本作は題名とは違い、息子が幽霊で、原爆から生き残った母親と同居していく話となっているところでしょう。これが「父と暮せば」が死んだ父親の呪縛から逃れられない(というより、逃れることを申し訳なく思っている)娘が、未来に向かって生きるという前向きな話になっているのに対し、本作は未来を生きるべく学んでいた医学生の息子・浩二が死んだことで、今を生きている母親と同居という形になってしまっているので、お話としてどうしても後ろ向きな形を取らざるを得なくなってしまっているのです。かえずもがな、その未来に向かってというメッセージ性を、浩二の恋人・町子に背負わせるのですが、そのことで町子のエピソードを余分に描く必要が出てしまい、母親と息子という2人の劇の尺が短くなってしまうジレンマが生じてしまうのです。

物語として未来を背負うべき町子が、その役回り通り進み、それを浩二の母親が見守っていくという形をとることでお話としては一応決着はするのですが、非常に回りくどいし、せっかくの大女優・吉永小百合が演じているのにも関わらず、ラストの母親の存在がどうしても弱々しいものにみえて仕方ありません。ラストシーンは、こういう設定上ああいう終わり方にするしか選択肢はないように思えますが、「父と暮せば」のラストに比べると、非常に後味の悪いものに感じてなりません。井上ひさしがどこまで構想設定をしていたかは分かりませんが、作品としてはもう少しシンプルに町子だけではなく、戦後生き残った全ての人に向けたメッセージとしてもよかった。個人的には、「父と暮せば」と同じ形の母親版でもよかったと思いますが、例えば、母親が助産師であるというところをもっと活用して、戦後生まれてくる子どもたちを使うような形もあったかと思います。

ただ、冒頭の原爆シーンはここ数年観た作品の中でもピカイチに恐ろしかった。原爆が落ちた後を生々しく描くのではなく、そこを想像させて、落ちる瞬間までをリアルに作りこむという手法が効果的に使われていると感じました。出だしは良いだけに、何か物語をもう一工夫して、より分かりやすい形に変えたほうがいい作品になったと思います。

次回レビュー予定は、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」です。

12月 28

マルガリータで乾杯を!

「マルガリータで乾杯を!」を観ました。

評価:★★★

一昨年くらい前からインド映画の大きな変化について、感想文でもいくつか書いてきましたが、本作もそうした流れの中で生まれたインド映画。ちょうど年末という時期もあって、昨年の鑑賞映画ベスト10の中にもいれたインド映画がありました(「マダム・イン・ニューヨーク」)。それはひとえに、ケバケバしいような着飾ったインド映画ではなく、本当にインドに生きる人たちの視点で描かれた温かみのある人情劇としての映画。歌や踊りも確かに楽しいのですが、そういう要素を抜ききった映画もまた一興できるのがインド映画の凄さなのです。、、と書いておきながらですが、本作はちょっと違った味わいを感じた作品になりました。

予告編を見た感じだと、障害を持った女性とその母親が強く生きていく感動作なのかなといった感じでしたが、それはインド映画の奥深いところ。。そう簡単には終わりません。本作の描いているテーマはいくつかあるのですが、共通しているのは、人と人との間にある見えない境界線というところ。単純にまず観て分かるのは、障害者と健常者との間にある線ですが、それ以外にも、親と子、国と国、異性愛と同性愛、、といろいろな境界線を提示されるのです。正直、最初の障害者と健常者だけでもお腹いっぱいなのに、それ以上やってしまうのは少々やり過ぎ。テーマの提示が多すぎて、肝心のドラマに入っていくことができにくくなっているのです。

しかし、そのやり過ぎ感も、テーマ1つ1つを決して軽はずみに取り扱っていないところも凄いところ。障害者と健常者という線で考えてみても、例えば、序盤にあるライラとバンド仲間のヴォーカル、ニマとの一方的な片想いも、障害者として理解できるところ。一般的に、障害者に優しく接するのは(人間的に普通以上ならば)誰しもする行為なんだろうけど、その優しさを自分への愛情と勘違いしてしまうことはよくあること。これも障害者の側にすれば迷惑な話でもあるけど、障害者全般に対する人間的な愛情と、その人に対する友情や愛情というのは全くの別物と健常者は思ってしまう。しかし、その境界線は愛情という行為が地続きである以上に、誤解されても仕方がないことなのかもしれない。逆に、ライラがニューヨークで出会ったジャレッドはそうした壁(境界線)をも平気で超えてくる猛者でもあり、こういう好対照なキャラクターがライラの周りに現れる男性として配置されることが、この映画の面白いところでもあるのです。

ただ、やっぱりいろんなテーマを盛り込み過ぎで、せっかくの母娘の愛情物語がかなり薄まってしまったのが残念なところ。登場している俳優陣の演技も抜群(個人的には、ライラの友人ドゥルヴがいい味を出している)なだけに、もったいないことをしている作品だと感じます。

次回レビュー予定は、「母と暮せば」です。

12月 26

Re:LIFE

「Re:LIFE リライフ」を観ました。

評価:★★★★

ラブロマンス、ラブコメディの王様的にいるヒュー・グラントが、「トゥー・ウィークス・ノーティス」「ラブソングができるまで」「噂のモーガン夫妻」に続き、マーク・ローレンス監督と組んだ作品。今回、ヒューが演じるのはハリウッドの脚本家キース。過去にアカデミー賞受賞の栄誉を得たものの、近年はヒット作品を出せずに悶々とした毎日を送る、くさった男(笑)。いよいよ電気も止められ、生活をするにも苦しい生活状況に追い込まれたキースは、自身のエージェントの紹介でニューヨークの片田舎ビンガムトンにある大学で教鞭をとることになる。お金のためと、やりたくもない大学教員の役回りに当然身も入らないのだが、シングルマザーの学生ホリーの導きもあり、徐々に教えていくことに興味を覚えていく。。

とにかくヒュー・グラントの魅力が全開の映画。もはや「9ヶ月」や「ノッティング・ヒルの恋人」の頃のような、ウブなキュートさはなくなったヒューではありますが、持ち前の飄々とした語り口は健在。僕は本作とかを見ていて、スタイルは少し違えど、往年の名優ウディ・アレンをどこか彷彿とさせるところが出てきたようにも思えます。シニカルな自虐ギャグ、軽妙な語り口でシーンをつなぎながらも、いざ真摯に教鞭を振るうシーンでは、真面目に脚本に望んでいた頃のキースというキャラクター像をうまく醸し出す。ホリーを演じるマリサ・トメイや、「セッション」でアカデミー賞俳優となったJ・K・シモンズなど、脇を固める俳優陣も演技派なところを見事に揃えているので、ヒューの軽快な演技に的確な形で応えることができる。カナディアンジャズのような軽妙なサウンドがどこかから聞こえるような、演技のセッションが目の前で繰り広げられる楽しい作品になっています。

ただ、よくも悪くも、ビックリするような展開もなく、自然と終幕を迎えるのがヒュー・グラント主演作。本作もハッピーエンドではありますが、そこまで盛り上がることなく、静かに終わっていくので、多少食い足りないような気がする方もいるように思います。でも、エンド・クレジットまでサービス全開で盛り上げてくれるのも楽しいところ。ちょうど公開時期がクリスマスシーズンにも当たるので、本作を観てから、本番のディナータイムに行くようなデートの組み立てがちょうどいいようにも思います。クリスマスには関係ない作品ですが、この時期に良い小さな贈りものをもらえたような素敵な作品になっています。

次回レビュー予定は、「マルガリータで乾杯を!」です。

12月 25

007 スペクター

「007 スペクター」を観ました。

評価:★★

ダニエル・クレイグとしてのジェームス・ボンド第4作、007シリーズとしては第24作にあたる本作。監督は、前作「スカイフォール」と同じく、「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデス。シリーズお馴染みのボンド・ガールを本作で演じるのは、犯罪者の未亡人を演じるモニカ・ベルッチと、ダニエル・クレイグシリーズとなってからの宿敵でもあるMr.ホワイトの娘役にレア・セドゥが出演しています。ちょうど前作「スカイフォール」で旧作の司令官であったMをジュディ・デンチから、名優レイフ・ファインズに引き継ぎ、Qも新しくなって、今作こそ本当のリブートになるかと期待したのですが、その期待は見事に裏切られた作品になってしまっていました。。

本作の駄目だなーと思うのは、前作のジュディ・デンチ演じるMの死から、MI6ビルの崩壊まで、”スカイフォール”同様にことごとく崩れたMI6がボンドの手によって復活してくるのでは、、という期待でした。それが前作「スカイフォール」でのラストシーンで、レイフ・ファインズ演じる新Mの存在と、ショーン・コネリーが演じるた頃のような臙脂色の司令官室の様子などに見て取れ、これは本作からリブート(再復活)した新しいボンドシリーズになるのではという期待でした。しかし、本作で敵になるスペクターという存在が、前作で焼け落ちた”スカイフォール”に関係してくるだけではなく、ダニエル・クレイグシリーズとなってから登場した今までの全ての敵を統括するような敵という、ファミコンでいうとボスを4体くらいやっつけた後に出てきた隠れ大ボスみたいな存在になっており、リブートどころか、それこそ今までのシリーズをずっと引きずった形になっていることに凄く違和感を感じました。Mr.ホワイトの存在や、冒頭にデンチ演じるMまで出してしまうという、「007 カジノ・ロワイヤル」から始まるダニエル・クレイグのシリーズを知らないと楽しめないような世界観になってしまっていることに、本シリーズの構成の仕方にそもそも疑問符をつけたくなるように感じました。

007シリーズの良さというのは、それこそ寅さんシリーズのようなお約束がしっかりと映画に刻まれているだけではなく、単体作品としても十分楽しめたところにあります。冒頭に必ずアクションシーンから始まること、ボンド・ガールが登場すること、分かりやすいイカにもな敵が登場すること、Qから与えられるスパイ道具を活用して策略し、大団円となる大仕掛なアクションで幕を占めること、、これら全てのボンド映画の要素を本作は満たしているものの、ダニエル・クレイグ版となってからは背景になるドラマの練り込みが濃くなって、ジェームズ・ボンドというキャラクターの人間味がシリーズドラマとして描かれるようになってくるのです。これはいい意味ではドラマとして肉厚になったこともあるのですが、悪い面では単発作として楽しめなくなり、シリーズとして観ないといけなくなると同時に、ショーン・コネリーから始まるダニエル・クレイグ版以前の過去20作品とは切り離して考えねばならない色合いが強くなってきているように思います。

僕が007を映画館で見始めたのは、ピアーズ・ブロズナン版の「007 トゥモロー・ネバー・ダイ」(1997年)あたりからですが、やはりこの頃のボンドと、今のボンドは違うなーと思います。これだけボンドとしての人間ドラマが濃くなった要因として考えるのは、やはり今の世界情勢が硬派なスパイ映画とマッチングが取れなくなってきたからなのだと思います。先日の「コードネーム U.N.C.L.E.」の感想文にも少し触れましたが、スパイ作品活況の時代はやはり冷戦下であり、対共産主義、もしくは二大勢力に挟まれた第三極という分かりやすい敵を仮想化していました。ところが共産圏が崩壊し、一時は北朝鮮やイラクなどのいわゆるテロ国家というものが敵として描かれた時期もありましたが、いまや世界が相手にしているのはイスラム国のような反社会勢力という、従来のような土地や国民を持っている国というアイデンティティーを必ずしも持たないという敵に変化しており、国家という分かやすい対象がなくなってきたことも要因になっているのでは?と推測します。だからこそ、本作のような変化が今後のスパイシリーズの基本となってくるのかもしれません。

兎にも角にも、この007シリーズが次回どのような変化を見せるのか、、ラストで立ち去るボンドの後ろ姿を観て、期待とそれ以上の不安で胸いっぱいになる作品でした。

次回レビュー予定は、「Re:LIFE」です。

12月 24

黄金のアデーレ

「黄金のアデーレ 名画の帰還」を観ました。

評価:★★★★

今年は秋以降に一風変わった戦争映画が公開になることが多いですが、これもその一本。先日、第二次世界大戦下にナチスに奪われた美術品奪還を目指す秀作「ミケランジェロ・プロジェクト」の感想文を書きましたが、本作も時代はそれより少し経った現代ですが、同様にナチスに奪われた美術品を取り戻す過程を描いた作品になっています。本作の対象になっているのは、クリムトの名画”黄金のアデーレ”。無論、絵自体は有名な作品なので知っていましたが、この名画にこうした隠された歴史があったとは知りませんでした。アデーレを所蔵したいたオーストリア政府を相手にした法廷もの(リーガルドラマ)でもあり、名画略奪の背景を描くサスペンスでもあり、なんといっても一人の女性が戦争で失ったものを描く戦後の戦争映画にもなっているのです。

僕も感想文で何回か書いたと思うのですが、戦争映画というのは戦闘が行われる最前線を描くものだけではなく、銃後(非戦闘地)を描いたり、本作のように戦後何年も立ってから起こる事件を巡って描いたり(先日の「顔のないヒトラーたち」など)するほうが、その戦争が起こした悲劇をより強調できるのかなと思うことがあります。本作に登場する”黄金のアデーレ”描かれたのは、第二次世界大戦前の1907年。物語は静かにそこからスタートします。そこからナチスがオーストリアを併合するのが1938年。アデーレ自身は1925年に亡くなっているのですが、そのアデーレに可愛がられた姪のマリアが紡ぎだすアデーレへの想い、そして戦争によって引き裂かれた家族への想いが、名画奪還を目指す現代法廷ドラマの中に綴られていきます。これは単純な1つの美術作品に対する物語ではなく、その美術作品が生まれた背景に生きた人たちに向けたドラマになっているのです。

現代を生きる姪マリアを、「クイーン」でアカデミー賞俳優となったヘレン・ミレンが軽快に、そして楽しく演じていることが伝わってきて、観ているこちらも非常に気持ちがいいです。彼女を支える弁護士ランディを演じるライアン・レイノルズも、演技を拙そうにしているところが、弁護士としてもヒヨッコのところから徐々に成長していくところをうまく表現されていると思います。現代劇となる法廷ドラマが中心となるものの、過去をタイミングよくフラッシュバックして物語の背景を浮き彫りに演出しているところも見事。作品のテンポもよいので、題材が重たい割にサクサクと見れるところも好印象です。ラストが「タイタニック」っぽくなる演出が少しイマイチですが、作品のまとまりもよいので、この冬で見逃せない作品の1つになっていると思います。

次回レビュー予定は、「007 スペクター」です。

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